骨董・古美術を楽しむ
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  3. 日本人の美意識とわび茶
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  5. 美術館の紹介
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  7. 参考文献

茶陶と京焼

(1)一楽二萩三唐津
安土桃山時代には、一井戸二楽三唐津といわれ、やがて一楽二萩三唐津と言われるようになった茶陶のランク付けを言います。
将軍義政お好みの東山文化が戦国末期の頃に畿内や各地の有力な戦国大名に伝播するに伴い、次第に闘茶から転じた茶の湯が盛んになりました。こうした背景下に、堺を直轄地とした織田信長(1534〜1582)は、千利休(1522〜1591)を茶堂に迎えて、天下統一を進めるに際し、配下の武将の功績に応える領地が十分でないため、若しくは配下の武将の領地が過大となるのを防ぐために、茶道具に法外な値踏みをして領地に代わる褒美として与えるようになりました。一井戸二楽三唐津とは、権力者から頂戴するこのような褒美のランク付けであったと言われています。
茶の湯は、本来濃茶を喫することを目的とするものであり、井戸・楽・萩・唐津の茶碗は、いずれもザングリとした手取り感のある濃茶を練るに適したもので、利休時代までの茶人の嗜好を反映したものと言えます。
現代では一楽二萩三唐津又は一萩二楽三唐津の言葉は独り歩きを始め、萩・唐津の諸窯で手前勝手に解釈されて、宣伝手段として大いに利用されています。
《井戸》
李朝雑器を茶碗に見立てたもので、姿が堂々として美しく、竹の節高台とかいらぎ、胴のクッキリとした轆轤目、枇杷色釉が特徴です。大井戸・小井戸・青井戸・脇井戸などがあり、大徳寺孤篷庵の国宝「喜左衛門」、重文の「筒井筒」が有名です。
《楽》
楽焼は、三彩陶の技法を有する帰化人阿米也が天正(1573〜1591)の中頃に焼成・釉技術を創始し、楽家初代長次郎が茶の湯の大成者千利休のために茶碗を造ったことに始まります。@茶の温度を保つに適した器胎、A茶の色に合う落ち着いた釉の色調、B不規則自在な成形で口造りに五岳など生ずる巧みさを備えています。
黒楽・赤楽とも器体を素焼きした後、黒は加茂川黒石から作った鉄釉を掛けて乾かす工程を何度も繰り返し、焼成中に長い鉄鋏で引き出して急冷する焼成方法を用い、赤は聚楽土(初期)を用いた胎土そのものの発色であり、その上から透明釉をかけています。焼成火度は赤800度、黒1000度です。
国宝白楽茶碗「不二山」は楽家と親交のあった本阿弥光悦作で、志野「卯花墻」茶碗とともに国焼茶碗としては二碗のみ国宝指定されています。
《萩》
毛利輝元が、朝鮮出兵後陶工李勺光・李敬の兄弟を伴って帰国し、李勺光は当初長門に、李敬は萩に開窯したことに始まります。後に、毛利氏の萩移転に伴い李勺光も萩に窯を移し、勺光の死後李敬が窯を継いで藩主から「坂高麗左衛門」の名を受けて今日まで受け継がれています。地元では、長門市の深川焼と萩市の松本焼の二ヶ所が伝統的産地となっています。
十文字高台・割高台・切高台などに特徴がみられます。
《唐津》
一井戸二楽三唐津と言うときの唐津は、織部意匠の影響を受けた現在の唐津窯でなく、本来は「奥高麗」茶碗と呼ばれる普通の古唐津より細かい胎土でごく薄い土灰釉を掛けたものを指しています。唐津茶碗は鉄分の多いネットリした感じの胎土が多く、壺や水指などは叩き製法を特徴としています。
(2)遠州七窯
遠江守小堀政一(1579〜1647)は、古田織部(1544〜1615)に茶を学び茶人、建築家、作庭家としても名高い遠州流茶道の祖です。彼の選定した茶道具は中興名物と言われ、その好みは「きれいさび」と称されます。席中と露地の花が重複することは興を削ぐとする教えは、遠州の説いたものです。
七窯とは、遠州の好みに合った道具を焼いた志戸呂(遠江)・膳所(近江)・朝日(山城)・赤膚(大和)・古曽部(摂津)・上野(豊前)・高取(筑前)を言います。
《名物》
    名物とは優れた茶道具類をいい、大名物・名物・中興名物に大別されます。大名物とは、足利義政(1436〜1490)が蒐集品を能阿弥(1397〜1471)・相阿弥(? 〜1525)らに鑑定させて『君台観左右帳記』に載せた東山名物ほか、名家の伝来品などへの尊称です。名物は信長や秀吉(1537〜1598)が津田宗及(? 〜1591)や利休に鑑定させたものです。大名物と名物には唐物や高麗物が多く、中興名物は遠州が選定した和物が主体です。
(3)京焼と仁清・乾山・頴川・木米・道八・保全
茶道の興隆につれて茶陶の製造が盛んになるとともに、文化の中心地京都では17世紀中ごろ御室で野々村仁清(生没年未詳)が優雅な色絵陶器を完成させました。色絵磁器は柿右衛門に始まりますが、仁清の色絵陶器は柿右衛門に数年〜二十余年先立つものと推測されています。
琳派を代表する尾形光琳(1658〜1716)の弟で多才な芸術家尾形乾山(1663〜1743)は、仁清から直接指導を受けてそれを継ぎ、鉢や絵皿などを残しました。
18世紀期末には奥田頴川(1753〜1811)が本格的な色絵磁器を始め、青木木米(1767〜1833)・仁阿弥道八(1782〜1855)らの若手工人たちにそれを伝えました。頴川・木米・道八の作品は、この頃盛んであった文人趣味の煎茶に適うものが多く見られます。
19世紀には土風炉師11代善五郎の保全(1795〜1854)が頴川の流れとは別に色絵磁器や色絵陶器を始め、紀州徳川家に招かれ御庭焼を開窯して「永楽」印を賜ったほか、各地に招かれ作陶指導しました。その息子和全(1823〜1896)は加賀大聖寺藩に招かれ山代で作陶指導したほか、三河岡崎の豪商鈴木利蔵に招かれ甲山焼を興しました。

 

 

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